『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか?

 それから次に、この執筆者は、「『教会教義学』(Kirchliche Dogmatik, 1932年 - 1968年)」と書いているのであるが、バルト自身の最晩年の『教会教義学 断片』「はしがき」には、「一九六七年の復活節の季節に、バーゼル市ブルーダーホルツで」となっているから、1932年-1968年ではなくて、1932年-1967年と書いた方がよい。すなわち、バルトの最晩年の『教会教義学 和解論』(「断片」)の出版年は1967年なのである。因みに、逝去した最晩年にバルトが執筆したものは、1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)である。さらに執筆者が「晩年の書簡」と言うのは、その内容からして、「書簡」ではなくて、この『シュライエルマッハー選集への後書』のことであると思われる。また、この執筆者は、バルトは「『教会教義学』最終巻 (IV/3, § 69) などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している。……『教会教義学』……」、「これが未完である事情は単に年齢の問題だけではなく、晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる。『私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい』」というような曖昧模糊とした言い方で書いている。しかし、バルト自身は、「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」を考察の対象として『教会教義学』の構成をしていたのであるから、執筆者の書いた「もう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」ということは、バルト自身の『教会教義学』の構成に即して言えば、バルトにおいては、未完に終わった愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊に関わる『教会教義学 救贖論』(終末論、『バルトとの対話』に即して言えば「完成」論)へと向かわざるを得ないということは必然的・不可避的なことであるから、執筆者は、このように具体的に記述すべきであると考える。執筆者は、このようにバルト自身の主要著作に即して論じるべきであると思われる。さらにこの執筆者は、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、短絡的な仕方で、バルトは「敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった。したがって(≪?≫)、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)のである」と書いている。さらに言えば、バルトの主要著作に即して論じようとしていないこの執筆者は、また処女作についての概念規定を持たないこの執筆者は、バルトの処女作(神と人間との無限の質的差異という概念によって確実に明らかに、近代主義的神学の段階、総括的に言えば自然神学の段階を包括し止揚し克服した『ローマ書』「第2版序言」)を確定することなく、ここでも根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、短絡的な仕方で、「彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰している(≪?≫)」と書いている。さらにもっと言えば、このようにバルトの主要著作に即して論じることをしようとしていないこの執筆者は、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理それ自体で、その認識方法と概念構成それ自体で、近代主義神学の段階を、総括的に言えば自然神学の段階を包括し止揚し克服したところでの「第三項の神学」(「聖霊の神学」)の構成への「夢」を論じた1968年(逝去した年)の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)をじっくりと腰を据えて精読し理解しようとしないまま、あの言葉――すなわち、ここでも根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、短絡的な仕方で、「晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる」・「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」・「また彼は敬虔主義(≪逝去した1968年の『シュラエルマッハー選集への後書』において、バルトは、「敬虔主義」に属しているシュラエルマッハーに対して、根本的包括的な原理的な批判を展開している≫)や他の諸宗教にも関心を示すようになった」・「したがって(≪?≫)、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)のである」と書いているのである。このような執筆者に対して、『シュライエルマッハー選集への後書』、すなわち邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」の翻訳者の蘇は、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学(≪聖霊の神学≫)という発言について」、「これをバルトの『転向』と誤解する者」は、すなわち『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者のように「近代神学」への「回帰」・復古・逆行・退行と誤解し曲解し誤謬する者は、換言すれば「近代神学」への「回帰」・復古・逆行・逆行・退行と「誤解」し曲解し誤謬する者は、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」(あるいはそうした読み方をしている誰かの意見をそのまま鵜呑みにしたかである)というように指摘しているのであるが、この指摘は、客観的に正当で妥当性のある指摘なのである。ここで最大級の問題は、教会の宣教にとって最善・最良の神学を構成し展開したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教に対しても、また『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の読み手に対しても、徹頭徹尾甚だしい誤解と曲解と誤謬をさせ・迷惑をかけてしまうという点にあるのである、処女作の『ローマ書』「第2版序言」以降、「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執し固着したバルトがその生涯を賭してレンガを積み上げるように積み上げ構成されたバルトの神学を台無しにしてしまうという点にある。このような訳で、私は、この執筆者が、バルトの主要著作をじっくりと腰を据えて精読し理解するという仕方を通して、可及的速やかに、この記述<内容>を、自己検証され的確に訂正されることを切望する者なのである。私は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のわれわれは、教会の宣教にとって客観的に最善・最良の神学を構成したバルトのその神学を(それ故にキリスト教に固有な類を)、キリスト教に固有な類の時間性である歴史性に時間累積させていくことが大切で重要なことであると考える者である、バルトのその神学を決して台無しにすべきではないと考える者である。

 また、「方法論の確立」の項目について<未検証>だと考える。その理由は、以下の通りである。
 この執筆者は、バルトの、その神学的実存を含めたその一貫性のある神学的立場を、その神学の「方法論」を、その神学の原理、認識方法、概念構成を、内容的な意味での本当の処女作を、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の主要著作に即して、またその総体的全体的構造において把握し理解し記述しようとしていないように思われる。この執筆者は、「方法論の確立」で、次のように記述している――「神ひとりが神であり、人間という他者に依存しないため、この自己依存性 (aseitas) が神の自由である。しかし神は自己のみで存在しようとせず、人間を創造し、語りかけ、交わりをもつ。なぜならば、『神我らとともにいます(インマヌエル)』という神のあり方が神の愛である、というキリスト論的方法論をバルトは確立させるに至った」、と。この執筆者の曖昧な記述内容の仕方を読まれた方は、私が、先に、<strong>(1)</strong>において『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、三位一体の神について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならないということを書くべき不可避的な必要性と、<strong>(2)</strong>において『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、「聖霊の神学」について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならないということを書くべき不可避的な必要性を理解していただけると思う。

 また、「思想と業績」の項目について<未検証>だと考える。その理由は、以下の点にある。
 ここでも、この執筆者は、バルトの、その神学的実存を含めたその一貫性のある神学的立場を、その神学の「方法論」を、その神学の原理、認識方法、概念構成を、内容的な意味での本当の処女作を、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の主要著作に即して、またその総体的全体的構造において把握し理解し記述しようとしていないように思われる。この執筆者は、例えば「晩年の書簡」と言うのであれば、どの書簡のことであるのかという明記を為していない。また、この執筆者は、バルトが「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」と言ったというのであれば、具体的にどのような書物を指すのかを明記していない。もっと言えば、この執筆者は、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、また時系列的判断にだけ依拠して二元主義的に、さらに短絡的な仕方で、「『教会教義学』前半」の「『キリスト論的集中』」はバルトの「晩年の思想とは異なり」と記述している。この時にも、この執筆者は、そのように規定することができる根拠となるバルトの著作を示していない。この執筆者が、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って短絡的にバルトについて記述していることは、最晩年、すなわち逝去した1968年11月中旬のスイス放送で放送された番組における次のようなバルト自身の思惟と語りを、すなわちバルト自身の「自分の生涯について」の「最後の言葉」を引き寄せてみれば、すぐに分かることである。その最晩年の「最後の言葉」でバルトは、「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執し固着して、すなわち「イエス・キリストの名」にのみ引き寄せて、次のように述べている――「私が神学者として、そしてまた政治家としても」、すなわち神学者としても、また個、対・家族、社会的政治的な共同性としての人間という人間存在の三様式において不可避的に政治に関わらざるを得ない者としても、「語るべき最後の言葉は、恩寵といった概念ではなく、一つの名前」、すなわち「イエス・キリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会とそしてまた神学との彼岸にある、究極のものなのです……。私が私の長い生涯において努力してきたことは、いよいよ力をこめて、この名を強調し」、「そして、そこにこそ! と語ることでした。この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります」、と(エーバーハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』)。

 言い換えれば、この執筆者は、バルトの「キリスト論的集中」という概念の説明を少しもしないでその概念を使っているのだと思われる。したがって、この執筆者の「キリスト論的集中」の概念内容が全く不明瞭なのである。私の場合は、「キリスト論的集中」の概念内容は、バルトの著作に即して言えば、例えば、徹頭徹尾神の側の真実としてあるキリストの死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの(『福音と律法』)である「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、換言すればイエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの(平和の概念は、救済概念に包括されたそれである)ということを意味している。また、それは、『教会教義学 神論』に即して言えば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(あくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」ということを意味している、すなわち先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを意味している。イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊という三一性を意味している。このような訳で、時系列的判断だけに依拠して二元主義的に「『教会教義学』前半」の「『キリスト論的集中』」はバルトの「晩年の思想とは異な」っているというこの執筆者は、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って短絡的な仕方で、記述していると言うことができるのである。また、この執筆者は、バルトの「思想の変遷を表す著書として」、前期著作に属する「『ローマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して」、後期著作に属する「『教会教義学』前半では、特に倫理問題を扱うにあたり、『神』よりも『イエス・キリスト』という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に彼の神学が集中していった」と記述している。私には、このように記述する執筆者に対して、本当に『ローマ書』「第2版序言」を精読し理解しようとしているのだろうか、また『教会教義学』に関しては、「神の言葉論」から「和解論 断片」までのバルトのその構成の仕方とその内容を本当に理解しようとしているのだろうかという疑問が湧いてくるのである。何故ならば、例えばバルト自身の『ローマ書』における「神」は、「一般的抽象的言葉」では決してなく、明確に神と人間との無限の質的差異の下におけるキリストにあっての神であるからである。例えば、『ローマ書』においては、次のように述べられている――内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」におけるまことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」、と。また、『ローマ書』「第二版序言」(1922年、「序言」は1921年9月に書かれている)を読んでみれば明々白々である。バルト自身は、「第二版序言」で、次のように述べている――「(中略)……私が、パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かに語ったのではない」という「仮説」を立てたとして、「もしその仮説が間違っているなら、すなわち本当にパウロが時間と永遠との恒常的危機以外の何かについて語っているなら、パウロのテキスト自体が進展してゆくうちに」、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動が進展してゆくうちに、「私は自ら不条理に陥ることであろう」・「もし人々がパウロの名のもとに、表面はイエス・キリストを説きながら、実は」所与の「絶対的な相対物や相対的な絶対物から成る全く人智学的混沌(≪神と人間との無限の質的差異を「わがまま勝手に」止揚し捨象した、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した対象物、人間的自然、「存在者レベルでの神」、諸々の偶像的「混沌」≫)を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである」・「さて、この私のローマ書注解の内容について言えば、私は、三年前と同様、今もいわゆる福音の全体ということよりも真の福音」、内容的にまさに純粋なキリストの福音「ということを問題にした、ということをみずから認める。けだし、私見によれば、福音の全体に至る道は真の福音」、内容的にまさに純粋なキリストの福音「の把握を通じてよりほかになく、しかもこの真の福音はいまだ何人にもその全側面を同時に顕わしたことがないからである」。したがって、われわれは、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身を、それ故に具体的には預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)を、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における、その一つの機能としての神学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(「律法の成就」・完了そのものとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)――すなわち、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指していかなければならないのである、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していかなければならないのである。このような訳で、この執筆者について言えば、この執筆者は、本当は『ローマ書』「第二版序言」を精読し理解していないに違いないのである。何故ならば、この執筆者が、『ローマ書』「第二版序言」を精読し理解していたならば、バルトは「『ローマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いた」というような誤解と曲解と誤謬のただ中にある短絡的な仕方で記述を行うことは決してできないであろうからである。またこの執筆者は、曖昧模糊とした述べ方で「キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻……などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している」、と記述している。この執筆者は、バルトにおいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)には、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事が必要であるということを認識していないのである。客観的な啓示(啓示の客観的側面)とは、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト自身)およびこの第一の形態の神の言葉を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)ならびにこの聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義のことである。このような訳で、この執筆者の記述内容を厳密に正確に述べるならば、次のように述べるべきである――神の側の真実としてある、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有の証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、換言すればその第一の形態の神の言葉である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解)を起源とするキリスト教に固有な類――すなわち、預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義としての第三の形態の神の言葉――と、その時間性(時間累積)としてのキリスト教に固有な歴史性を持っている、と。

 バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)」とまさに誤解と曲解と誤謬のただ中で記述したこの執筆者は、ブルンナーの側に身を寄せて、「この関連で、エミール・ブルンナーとの自然神学論争において彼が主張した『人間にはもはや「神の像」なし』という主張もまた再検討されうる。神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーとバルトは主張を同じくするが、ブルンナーが主張した『人間における結合点』とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである」と、ここでも曖昧模糊とした述べ方で、全くの誤解と曲解と誤謬に満ちたことを短絡的な仕方で記述している。この執筆者は、ブルンナーのその聖霊概念が、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し、キリストにあっての神の全き自由の愛も止揚し捨象し、あるいは後景へと退けて、また第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教における、その一つの機能としての神学における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(それ故に具体的には、その第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)も後景へと退けて、自然神学の段階で停滞している概念的水準にあるそれであるということを認識していないのである。それに対して、徹頭徹尾聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯すること(例えば、『説教の本質と実際』に即して言えば、第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」)で自然神学の段階を包括し止揚し克服した<非>自然神学の段階にあるバルト自身の聖霊概念は、次の点にある――神と人間との無限の質的差異の下で、またキリストにあっての神の全き自由の愛の下で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それ故に聖霊によって「再生」・「更新」された理性も、聖霊ではないのである(『教義学要綱』)。しかし、自然神学の段階にあるブルンナーの聖霊概念は、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」(『教会教義学 神の言葉』)のことである、それ故に生来的な自然的な人間の理性・自己意識・思惟であり、それは、新たな神との「共働者」関係の構築を目指すそれとして、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」ように一致する概念的水準にあるそれなのである(『カント』)。この執筆者には、ブルンナーのその聖霊概念は、「聖霊論が人間学である」という自然神学の問題を宿しているそれであるという認識が欠けているのである。また、ブルンナーは、内容的には「神の像」は「全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もない」と語るのであるが、「人間には啓示なくしても」、啓示とは独立して、「人間自身が本来持っていて(≪生来的に自然的に持っていて≫)、そして啓示の中で言わば甦って来る」、人間に内在する「啓示能力」、「言語能力」、「言語受容能力」、「呼びかけられうる能力」があり、それは、「人間の持っている(≪生来的に自然的に人間に内在する≫)『神の像』」であると言うのである。すなわち、ブルンナーは、それらは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものである」としても、キリストにあっての啓示とは独立して「人間の側から」する「啓示に先立つ『啓示能力』」、「結合点」」、すなわち人間的契機の<直接性>、先行する人間に内在する人間的自然を「主張する」のである。この自然神学の段階にあるブルンナーの教説おける人間に固有な「結合点」は、罪人からも喪失してしまっていない「形式的な神の像」であり、それは具体的には生来的な自然的な人間の「人間性」、「理性や応答責任性や決断能力」のことであり、「神の啓示に対する客観的可能性」となるものである(『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』)。このブルンナーの教説は、神と人間との混淆論あるいは「協働」・「共働」論として、まさに自然神学の段階にある神学、自然神学なのである。また、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、ブルンナーの目指している神学的課題は、「理性的思惟の絶対化」や「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにあるのだが、しかもそういう仕方で「近代的精神」を温存させることにあったのだが、まさにそれ故に、「啓示に先立つ『啓示能力』」、「結合点」、すなわち人間的契機の<直接性>、人間に内在する人間的自然を主張するのである、換言すれば「人間の側から」主張するブルンナーの「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」は、すなわち近代的な人間の自己意識・理性・思惟は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験も、人間学的な哲学原理・認識論・世界観も、キリストにあっての啓示とは独立させたその現にあるがままの生来的な自然的な人間の人間性・理性性・意志性・応答責任性・決断能力も、先行を欲求する「人間の側から」する神との混淆・共働・協働もという、「近代主義」、近代主義的神学、自由主義神学、近代主義的プロテスタント主義的神学へと向かうベクトルを持つものでしかないから、総括的に言えば人間が先行することを欲求する「人間の側から」する神と人間との無限の質的差異の止揚と捨象あるいは後景化、キリストにあっての神の全き自由の愛の止揚と捨象あるいは後景化において、自然神学を志向し目指すものでしかないから、このようなブルンナーに対して、バルトは、「否」と答えたのである。

 それから、この執筆者の言う、バルトは「また……敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)のである」という記述の仕方に従えば、例えばバルトがカントやヘーゲルをあくまでも<批判的><否定的>に媒介して『カント』や『ヘーゲル』を著わした時、すなわちそうすることで本当は、教会の宣教における、その一つの機能である神学における近代主義を、総括的に言えば自然神学を根本的に原理的に包括し止揚し克服するためにそうしているにも拘らず、バルトはその著作で最高に近代主義的な神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見したヘーゲルに「関心」を示したから、バルトは、「近代神学に回帰」・復古・逆行・退行したというような、全くの誤解と曲解と誤謬のただ中における短絡的な仕方での記述とならざるを得なくなってしまうのである。また、この執筆者の記述の仕方に従えば、「晩年」では全くない前期の1922年の『ローマ書』において関心をもって論じられているキルケゴールも、1968年の『シュラエルマッハー選集への後書』において関心をもって論じられているシュラエルマッハーも(そして、この書におけるバルトの思惟と語りは、根本的包括的な原理的なシュライエルマッハー批判である。このバルトは、『ヘーゲル』で、根本的包括的な原理的な批判の観点で、シュライエルマッハーに西欧近代主義者「ヘーゲルの強力な痕跡」を見ている)、バルトに言わせれば「敬虔主義」に属しているのであるから、「晩年」のバルトは「敬虔主義……にも関心を示すようになった」から「近代神学に回帰している(≪?≫)」というこの執筆者の記述自体に決定的な矛盾が生じることになるのである。

 さて、「第三項の神学」(「聖霊の神学」)における「聖霊」について、『教会教義学 神の言葉』によれば、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ずる御霊」・聖霊なる神は、救済主なる神(救済の神)、永遠なる霊である。すなわち、三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、三度目に、愛に基づく父と子の交わりから生じる一つの存在の仕方、すなわち第三の存在の仕方である。したがって、この聖霊という第三の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではなく、聖霊は、あくまでも神の本質の区別を包括した単一性において「父なる神と子なる神の愛の霊」である。したがって、『神学者カール・バルト』の訳者である蘇は、その「訳者あとがき」で、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし……」と述べているのであるが、その「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、和解論が三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに関わる事柄だからであり、その場合バルトは、「神の本質の単一性と区別」(神の本質の区別を包括した単一性)における内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(和解)に重点を置いて論じているだけなのである。このことを念頭に置けば、前述した『シュライエルマッハー選集への後書』にある「第一項と第二項の理解するところに従い、父なる神と、子なる神とについて信じ、考え、語らなければならないすべてのことは、父と子との間の平和の絆である聖霊なる神によって基礎づけられて、明らかにされ、光を受けなければならないであろう」という神の本質の区別を包括した単一性おいて「第三項の神学」(「聖霊の神学」)を構成したいというバルトの「夢」の事柄について理解することができる。すなわち、聖霊は、愛に基づく父と子の交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの性質・働き・業・行為・行動・活動である。ここに、神は愛である・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。この「父なる神と子なる神の愛の霊」としての内的・内在的な三位一体の神の、その外的・外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、イエス・キリストの父(起源的な第一の存在の仕方)と子としてのイエス・キリスト自身(第二の存在の仕方)の交わりであり、神と人間との交わりの根拠である。このような訳で、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の聖霊によって「再生」・「更新」された理性による信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)には、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事を必要とするのである。したがって、神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)シュライエルマッハーに対して、総括的に言えば自然神学の段階に属するシュライエルマッハーに対して、バルト自身は、逝去した年の1968年に著わされた『シュライエルマッハー選集への後書』において、最後的には次のように言わなければならなかったのである――「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道」、すなわち自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を包括し止揚し克服した<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の道に「踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」、と。このようなバルトに、この執筆者の言う「近代神学(≪近代主義神学、自由主義神学≫)に回帰している」バルトを、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教へと「回帰」・復古・逆行・退行しているバルトの姿を見ることは全くできないのである。